明日は、東日本大震災から丸三年。
もうそんなになるのかぁ、と時間の経過の速さに驚く反面、まだまだ終息には至っていないなぁと、時間だけが無駄に過ぎたような苛立ちも覚えます。
学生時代、岩手県で過ごしたということもあり、私にとっては、第二の故郷と言っても過言ではないくらいに、身近に感じてしまう東北。
あの日、友人宅で偶然つけた夕方の情報番組で、繰り返し流された津波の映像。
何処か遠い国の出来事のような、現実離れしたその様子に、しばらくピンと来ず、なになに?どこの話?どうなってるの?と、ハテナの連続。
帰宅し、夕飯の準備をしながらニュースを観ると、どこの局でも、大地震発生のこと、津波の被害のこと、そればかりで、やっとことの重大さに気づき、動揺し、不安にかられ、涙が止まりませんでした。
日が経つに連れ、想像を絶する甚大な被害が出たことがわかり、この国は、一体どうなるのだろうと、暗い気持ちになりました。
幸いにも、学生時代の友人たちに大きな被害はありませんでしたが、知り合い全員に確認をとったわけではないので、避難生活を余儀無くされた方たちもいたのだろうなと、思い起こしています。
小さな子がおり、家族もいるので、直接的な支援をすることができませんでしたが、何か助けを求められたら、できる限りのことはさせてもらおう、という気持ちはありました。
当時、仙台市内で被災した友人が訪ねてきてくれて、福岡県へ避難してこようかな、と相談してくれました。
嬉しかった。
学生時代の親友が、福岡に来てくれること。自分を頼ってくれたこと。
実際に、被災地に住んでいるものにしかわからない、不安や恐怖があるはず。
そういうことから、遠ざかることができ、少しでも不安が解消されるなら、離れた方が良いよ、こちらへおいでと、説得し、一緒にアパート探しにも行きました。
程なく、久留米市へ越してきてくれました。
それから一年と数ヶ月、彼女は福岡での暮らしの中で、いろんな人たちと出会い、いろんな場所に行き、いろんなことを考えたのだと思います。
昨年の冬、彼女は実家のある山形へ帰りました。
避難しておいで、と誘ったわたし。
住む場所が少し離れていたとはいえ、住み慣れない街でひとり奮闘する彼女に、どれだけのことをしてあげられただろうか?
悔しさが残りました。
被災地では、復興を目指して、地道にがんばっておられる方も多いとは思いますが、震災の爪あとがそのまま残り、時が止まったまんまの地域も多々あるようです。
昼過ぎの情報番組、福島で被災したある家族のことを取材していました。
奥さんの実家のある高知県へ疎開。
そこは、山間の小さな過疎の集落。
小さな子どもがひとりもおらず、小学校も閉校になる寸前でしたが、避難してきた家族の娘さんが一年生になるということで、その子を受け入れ存続。
たった一人の小学生。
女の子は、寂しくないと笑っていたけれど、教室の傍らには、唯一の友達のぬいぐるみが。切なくなりました。
しかし、高齢者がほとんどのこの街では、この女の子が来てくれたおかげで、光が差したように明るくなったと、住人のみなさんが口々におっしゃっていました。
女の子は、街の宝。
来てくれて、本当によかったと。
おじいちゃん、おばあちゃんたちの笑顔が増えたのだと。
番組を観ながら、なぜか涙が止まらず、複雑な気持ちになりました。
あるおばあちゃんが言っていました。
震災さえなければ、こんなへんぴなところに来る必要はなかったのにねぇ、、、と。
でも、この街の大人たちは、この家族を応援し、支えながらも、女の子の存在は無くてはならないものとなっていることは確か。
同世代の友だちがひとりもいない寂しさ、女の子とおじいちゃんおばあちゃんたちが想い合うことへの感動、震災さえなければという怒り。
それでも、この地殻変動によって、人も大きく動き、それまでもその先も、接点はなかったであろう人たちが出会い、関係を築いていき、お互いがかけがえのない存在になったということ。
震災がもたらしたことは、悪いことばかりではない、そのことが、私にも救いでした。
時間がかかってもいい、
いや、一日でも早く。
どうか、被災されたみなさんに、
以前とかわりない、
穏やかな生活を送る日々がきますように。
そして、改めて思います。
何の変哲もない、ありふれた日常を送ることができることに感謝し、毎日を大切に過ごそうと。
震災や津波被害、そして、原発関連の仕事で命を落とされたみなさまのご冥福を、心よりお祈りいたします。